筆者活動一覧

福尾匠の活動一覧(日付降順、2017年6月10日更新)

 

[口頭発表]"Deleuze's Anesthetics", Encounters with Japanese Artists, 草御殿, Taipei, June 3rd 2017 

 

[批評]「映像を歩かせる:『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」『アーギュメンツ#2』、p. 28-37、2017年5月

 

[レクチャー]「5時間でわかるドゥルーズ『シネマ』」、クロニクル、クロニクル!、クリエイティブセンター大阪、2017年2月5日

(イベントページURL: http://www.chronicle-chronicle.jp/news/1295 *動画と配布資料を公開)

 

修士論文]「ジル・ドゥルーズ『シネマ』の虚像:知覚から身体へ」大阪大学文学研究科文化表現論専攻、2017年1月

 

トークイベント]黒嵜想・福尾匠「映像批評の未来〜100年前の実験映画からシン・ゴジラまで〜」、クロニクル、クロニクル!、金沢美術工芸大学、2016年12月5日

(イベントページURL:  http://www.chronicle-chronicle.jp/news/1130 *動画を公開)

 

[レビュー]「小泉明郎「CONFESSIONS」展:イメージの背中、告白の背理」、HAPS PRESS、2016年11月30日

(記事URL:http://haps-kyoto.com/haps-press/exhibition_review/10_2016/

 

[口頭発表]「わたしに身体を与えてください」、第12回ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ研究会、2016年11月

 

[口頭発表]「エリー・デューリングの映像論:トポロジカルな同時性とパースペクティブ」、第11回表象文化論学会研究発表大会、2016年11月

 

[口頭発表] “A View from Inside the System(s) of Cinema: Perception as Zeroness and the Structural Moment of the Passage to Time-image” , The 4th International Deleuze Studies in Asia Conference, Seoul University, June 2016

 

[学術論文]「In (Search of) a Lost Image, Lost in a Stage : 伊藤高志『三人の女』」、『hyphen』、ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ、第1号、pp. 22-26, 2016年3月

(記事URL: https://dglaboratory.files.wordpress.com/2016/04/e7a68fe5b0be.pdf

 

[依頼翻訳]アンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」小倉拓也・福尾匠訳、『ドゥルーズ:没後20年 新たなる転回』、河出書房新社、pp. 42-63 、2015年10月

(出版社URL: http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309247359/

 

[口頭発表]「眼=カメラから眼=スクリーンへ:『シネマ』におけるふたつの受動性」、第3回ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ研究会、2015年5月

 

卒業論文]「ルイス•ブニュエル『欲望のあいまいな対象』論」大阪大学文学部、2015年1月

(*本ブログにて公開 記事URL: http://scknglmn.hatenablog.com/entry/2017/01/30/201050

卒論公開

2015年1月に提出した卒業論文、「ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』論」を公開します。

 

本文

www.dropbox.com

 

シーン分析表

www.dropbox.com

 

修士論文を書き終わって振り返ってみると、なおさら「よく書いたなあ」と思うと同時に、ドゥルーズだデューリングだと言っているあたり、大して変わっていないのかなとも思う。

研究発表のお知らせ(11/5 表象文化論学会)

11月5日に表象文化論学会の第11回研究発表集会で、「エリー・デューリングの映像論:トポロジカルな同時性とパースペクティブ」という発表をすることになりました。

www.repre.org

ひとつ前の記事はその予告編であるわけですが、ついでにこの発表の申し込みに際して作成したアブストラクトを公表しておきます。600字に満たないものなのですが、来られるかどうかお考えのかたは参考になさってください。

 

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 本発表は、近年「プロトタイプ論」によって注目されているフランスの哲学者、エリー・デューリング(Elie During)の映像論を取り上げる。彼の映像にまつわる論考がまとめられたFaux raccords: La coexistence des images (Actes Sud, 2010)は、映像空間をひとつの仮想的な世界として捉え、そこで繰り広げられるイメージの共存と連鎖を分析することで時間、空間というカテゴリーを更新することを狙った書物である。これは、ジル・ドゥルーズ『シネマ』の問題設定を引き受けた、ドゥルーズ以降最新にして最初の主要な試みであると言えるだろう。とはいえ、Faux raccordsは論文集であり、それぞれの論文でなされる個別の映像作品についての考察の背景にある時間、空間論を統一的に把握することは難しい。そこで本発表では、「トポロジー」、「パースペクティブ」、「知覚と記憶の同時性」、「虚構−芸術」などの、本書を通して重要な機能を持ついくつかの概念を取り上げ、それらの関係を仮設的に規定することでデューリングの映像論から構築しうる時空的なシステムを提示し、その帰結としての「プロトタイプ」の機能を明確にすることを試みる。デューリングの映像論は、メディア論や文化論に還元され得ない映像が持つ哲学的な射程を再検討するきっかけをわれわれに与えてくれるだろう。

 

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世界同時多発世界地図:エリー・デューリングのプロトタイプ論について

 地球が球形であることを前提とした世界地図の、最初の一般化したバージョンは「メルカトル図法」によるものだろう。これは地球を円筒の中にすぽっと入れて、その内側の側面に地球の外面を投射することによって得られる地図である。この図法の利点は四角い紙に全体を描くことができることにあるが、南極、北極に近づくに従って縮尺が横に伸びてしまい、実際の大きさ、形とは懸け離れたものになってしまう。
 次に、バックミンスター・フラーの発明した「ダイマクション図法」は、正二十面体に地球を投射したものであり、縮尺の歪みははるかに少なく抑えることができるが、当然出来上がる地図は正二十面体の展開図であり、長方形とは程遠いジグザグした形になってしまう。
 世界を一望のもとに収めることの原理的な不可能性と、われわれが世界地図によってそれをある意味で成し得てしまっているという事実性とのギャップには、なにが横たわっているのだろうか。

 10+1のウェブサイトに掲載されたエリー・デューリング、清水高志柄沢祐輔による鼎談が主題としている、同時性、一と多、パースペクティブなどのテーマも、この問題の周囲を巡っているように思える。

10plus1.jp

 エリー・デューリングは、「プロトタイプ論」によって哲学あるいは芸術学の分野で注目されている哲学者である。鼎談の中で彼はプロトタイプを次のように規定している。

オブジェクトそのものを、プロジェクトとして見ることができるというのが、その基本的な考えです。それがあるプロジェクトの特定の局面の、限られた表現だけを与えるものだったとしてもです。プロジェクトは、オブジェクトを超えてあるのではなく、オブジェクトのなかにあるんです。またオブジェクトは、それ自身で未来との関係を持っている。未来とは外部に横たわっているものではありません。それは内部にあり、オブジェクトに閉じ込められているのです。

あるいは

プロトタイプとしての芸術作品は、観念的でありながら実験的であるという、通常は切り離されている2つの方向性を統合するものです。観念化と実験が手に手を取っているんです。そんなわけで、アートオブジェクトは、それ自身の生成に先立つものでもなければ、その結果でもありません。真にその生成と、時を同じくしている(contemporary)のです。プロトタイプとしての作品は、その生成のおのおのの段階で立ち現われる。[中略]

その切断は、観念的で実験的なフォーマット、つまり後に異なる形態で遂行されるのかも、されないのかもわからない作品/プロジェクトの確かな潜在性を試し、査定するための目に見える枠組みを提供してくれるんです。

 こうしたプロトタイプというアイデアは、芸術作品を無限の理念の限定として捉える「狭義の」ロマン主義的美学を、そして作品それ自体より作品制作のプロセスを重視する、あるいはより極端にプロセス自体が作品なのだと主張する関係論的な現代アートに見られる潮流さえも広い意味でロマン主義的な枠組みから逃れるものではないと批判するものだ。プロトタイプ論が提示するポジティブな側面は、プロセスの「切断」としてオブジェクト(美術作品であれ建築であれ)を捉えることによって、オブジェクト自体にそれ固有の未来や、パースペクティブの共存を見出すことにある。

 以下ではそうした「切断」がどのようなものであるのかを考えてみよう。鼎談のなかにもそのヒントはたくさん散りばめられているが、彼の主に映像作品を扱う論文集『つなぎ間違い:イメージの共存』(Faux Raccords: La coexistence des images(2010, Actes Sud))も取り上げつつ論じる。本書は論文集であり体系的な叙述がなされているわけではないが、ここでは見通しをよくするために幾つかの概念を取り上げそれらの関係を仮設的に規定することを試みる。

  冒頭の世界地図の例に戻る。球形の地球の全面をそのまま一望することは不可能だ。われわれはつねに最大で半分の面積しか視野に収めることができない。しかし、球面にある種のトポロジカルな操作を加えればそれは可能になる。紙風船にハサミを入れて全ての面が見えるようにテーブルに置くことを想像してみると、どうやっても切れ目同士の間隙や表面のたわみを完全に取り除くことができないのがわかるだろう。上に説明した二つの図法はいわば、地球にハサミを入れて表面を引き延ばす際のルール、あるいは「フォーマット」なのだ。

  デューリングが「切断」という言葉で言わんとしているのも、このようなある種のフォーマットに沿ったものであるだろうし、彼が鼎談の終盤で示唆する新たな「グローバリゼーション」の必要性へのひとつの応答としてこのトポロジカルな切断の技法を考えることもできる。世界地図であればあらかじめ「正解」あるいは「モデル」としての地球が前提とされてしまうように思えるが、ここで重点を置くべきはむしろ、切断のプログラムの設定によって世界がそのつど投射(project)され生み出されるということであるだろうし、オブジェクトにプロセスが内在化されるというプロトタイプのありかたは、「地球(globe)」を巡って制作されるさまざまな地図が他の地図と競合しながらグローバルなもののイメージを複数化するという、清水がいう「一と多」の往還を織り込んだものであるだろう。身体的なパースペクティブが視覚的なパースペクティブと齟齬をきたしながら共存する柄沢によるs-houseが、ひとつの建物でありながらつねに離接やずれを引き起こすように。

 デューリングにおける「切断」のひとつの例として『つなぎ間違い』におけるヒッチコックの『めまい』論(p. 29-80)を挙げることができるだろう。 ここでは「空間のタイプ(type d’espace)」という彼の概念が切断のプログラムに対応するものとして考えられる。ここで彼は『めまい』という映画作品を統御する空間のタイプとして、「メビウスの輪」というトポロジカルな形象を取り上げる。つまり、いわば『めまい』というオブジェクトは、世界をメビウスの輪に投射したもの、あるいはメビウスの輪というフレームによって見られる世界として考えられるのである。そして、マデリンとジュディの反転と同一性というパラドックスが、デジャ・ヴュにおける知覚と記憶の反転(ベルクソン)に重ね合わされることで、空間のタイプはたんにオブジェクトのトポロジカルな性質を指すだけではなく、そのなかで流れる時間の固有性を含意してもいることがわかる。

 あるいは、アメリカのテレビドラマ『24』における分割スクリーンをめぐる論考(p. 155-183)をもうひとつの例としてあげることができる。「リアルタイム」で進行するサスペンスのなかで同時的な複数のシーンが共存し、かつそれらの相互の連絡が行われるのを提示する分割スクリーン。こうした現代的な状況は即時の(immediate)コミュニケーションを可能にし、空間的距離を抹消するものとして危惧されたり称揚されたりするものであるが、ポール・ヴィリリオに典型的なこの「空間の消滅」という考えをデューリングは批判する。分割スクリーンの効果はむしろ、同時的なシーン相互の連絡の有限性によって発揮される。切れてしまう通信、電話しながらの裏切り行為といったコミュニケーションの有限性だけでなく、画面外空間の増殖による「縁(fringe)」の重ね合わせが、この作品における分割スクリーンを「パノプティック」という素朴な一と多の関係でなく、絶えざる切断と接続によって露わにされる「断片による全体化」を打ち立てるものにする。(*なお、この点については、マルチスクリーンを用いた映像作品の批評である拙論「In (Search of) a Lost Image, Lost In a Stage:伊藤高志『三人の女』」 に詳しい)

 この二つの例からわかるのは、「切断」はなんらかのトポロジカルな構造(空間のタイプ)に沿ってなされ、それによって切断されたものがプロトタイプであること(あるいは、プロトタイプは自らを切断とみなすことによって新たなビジョンを投射するものであること)。空間のタイプは、メビウスの輪のような歪みを持ったものであったり、分割スクリーンのように断片的なものであったりするが、パースペクティブの共存の形式として提示されること。おのおののパースペクティブは、固有の外部(縁)を備えており、空間のタイプはそれぞれのアナクロニックな干渉の様態を規定するものであること、である。

 デューリングのプロトタイプ論がグレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」とは異なるのは、前者がつねに時間、空間というカテゴリーのなかで、あるいはそれを更新するためにオブジェクトを思考している点にあるだろうし、だからこそ映像、建築、美術は彼の哲学のマトリクスとなりうる。代替因果と緩衝因果という概念構成に見られるように、ハーマンはつねに論理的な関係のもとでオブジェクトを捉えているように思われる(それが絶対的な非ー関係に向かうものであるにせよ)。

 われわれが欲するのはイメージである。

 

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映画評:トッド・ヘインズ『キャロル』

2016年2月12日、TOHOシネマズ梅田にて鑑賞(作品公式サイト

二度繰り返されることになる、冒頭のリッツでの出し抜けの別れ。当然観客はこのときそれが繰り返されるとも知らないし、終盤になるまでリッツでの会食をふたりの物語のなかでどの時点に位置づければよいのかもわからない。実のところこの冒頭のシーン(あとでジャックと呼ばれる男がリッツへと入り、テレーズを発見し、キャロルが立ち去り、テレーズが窮屈な後部座席で濡れた窓越しに外を眺めるまで)を厳密に物語論的に位置付けることは不可能である。

というのも(もちろんそれは繰り返されたときに時間的な位置づけを受け取るし「そういうことだったのか」という納得を誘うものであるのだが)まさしくこのシーンの終わり方が問題になるからだ。テレーズの顔が内側は曇り外側は雨に濡れたガラス越しに大写しになる。踏切の警告音と電車の走行音とともに画面はアウトフォーカスし、ジオラマを走る電車、デパートでのテレーズとキャロルのファースト・サイトの場面へとショットが矢継ぎ早に切り替わり、テレーズがデパートで働くシーンへと視点は落ち着く。そして約2時間後、私たちはまたリッツから窮屈な車に乗ってパーティへと向かうテレーズを見ることになる。ならば冒頭のシーンの終わりは、回想を呼び出すものと考えるべきなのだろうか。しかしそうすると冒頭のシーン以外はすべて回想だということになってしまうし、リッツからジャックとともにパーティへ向かったテレーズのその後を見ているわれわれはいつの間にか回想が始まった時点を追い越してしまったことになる。回想の内容が回想を始めた時点を追い越してしまうなどということはあり得ない。
私はこの「不整合」を糾弾したいわけではもちろんない。むしろこの作品における車中のシーンはことごとく素晴らしいものだと考えている。実はテレーズが水の滴る窓から外を眺める同じショットが登場する場面はもうひとつある。それは、キャロルが娘のためにクリスマス・ツリーを買いに行くのにテレーズがついて行く場面。テレーズはキャロルの助手席に座っている。車がトンネルに入り、電灯の光が尾を引いて飛び去って行く。ここでなぜか雨も降っていないのに例のショットが挿入され、トンネルの出口でのホワイトアウト、画面に奇妙な浮遊感をたたえたまま、キャロルをこっそり写真に収めるテレーズ。加えて、唯一キャロルが後部座席から眺めた風景が主観ショットで提示される場面。そこで彼女は仕事へ向かうテレーズを視線で追いかける。この作品において車は移動手段である以上に、ふたりの主人公の内面がその窓に映り込むガラスの箱である。ガラスは透明であるが、外部の光をその表面に映さずにはおかない。ジャック・タチが『プレイタイム』でその性質をギャグに取り込み、最近では濱口竜介の『ハッピーアワー』におけるフロントガラスに映り込む並木の梢が印象的だったが、「半透明の美学」とは見えそうで見えないもの(ヴェールをかけられたもの)の美のことではなく見ているものがあるそこから見えるものが映り込んでしまうことの二重性の美なのではないだろうか。ドゥルーズが「結晶イメージ」という概念で意味していたのはまさに見ているものと思い出しているもの、思い描いているものが識別できなくなってしまうようなイメージのことだった。
テレーズは車内でぐったりしながらキャロルとのファースト・サイトを追憶し(電車の走行音→ジオラマの電車→デパートでのキャロルとの出会い)、テレーズから身を引き離したことを後悔するキャロルは車内からテレーズの姿を探し求める(キャロルとアビーは「オープンカー」に乗っていることを想起してもいいかもしれない)。最後の場面、ふたりは、180度の切り返しで正面からしっかりと見つめ合う。幻想は横断され=通り抜けられtraversé、ふたりは互いの関係を誰のせいでもなく終わりうるものとして捉えることがもうできている。

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(写真と本文は無関係)