福尾匠の活動一覧

(日付降順、2019年7月5日更新)

トーク平井靖史・福尾匠「脳はイメージである:ベルクソン物質と記憶』を読む」本のあるところajiro、6月18日

[講演]ドゥルーズ『シネマ』から考える読むことの創造性」、福岡大学人文学部文化学科 学部教育充実プロジェクト、福岡大学、6月17日

[選書コメント]「コンピューターは「ベルクソン的なもの」になる」、『WIRED vol.33』、プレジデント社、p. 133

[ゲスト講義]「制作と鑑賞の非対称性について:ドゥルーズフーコーデリダ:展評を書こう!」、京都市立芸術大学大学院美術研究科デザイン学特論ゲスト講義シリーズプールリバー、京都市立芸術大学、6月11日

[コメンテーター]アケネ・スメリク「イリス・ヴァン・ヘルペン(Iris van Herpen)とポストヒューマン・ファッションデザイン」コメンテーター:室井尚・福尾匠、FashionStudies™ × 横浜国立大学 アネケ・スメリク氏来日記念講演、公益財団法人日本服飾文化振興財団、2019年6月4日

[書評リプライ]廣瀬純氏による拙著『眼がスクリーンになるとき』書評について」、『repre』第36号、表象文化論学会、2019年6月

https://www.repre.org/repre/vol36/note/fukuo/

 

[展評]「話が前後するが、」大岩雄典個展「スローアクター」評、『ウェブ版美術手帖』、2019年4月

https://bijutsutecho.com/magazine/review/19656

[書評]「やさしさはひとにだれかのふりをさせる」大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房、2019年)書評、『新潮』2019年5月号、p. 262−263

[インタビュー]「研究と批評」、『横浜国立大学都市イノベーション学府・研究院イヤーブック2018/2019』、都市イノベーション学府・研究院、2019年3月、p. 14-18

[書評]「「新実在論」はどう響くのか」丸山俊一『マルクス・ガブリエル:欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書、2018年)書評、『朝日新聞』2019年3月16日号、27面

(ウェブ転載記事:

https://book.asahi.com/article/12219488

モデレーション田中功起『可傷的な歴史(ロードムービー)』上映後アッセンブリー」、シアターコモンズ'19、東京ドイツ文化センター、2019年2月22、24日

トーク福尾匠・奥泉理佐子・大岩雄典「re・だんだん・see:一望できないものの設計と批評」、大岩雄典個展「スローアクター」、駒込倉庫、2019年2月11日

[合評会]「『カオスに抗する闘い』『眼がスクリーンになるとき』合評会」、DG-Lab、クロスパル高槻、2019年2月8日

[講師]東京芸術大学大学院壁画第一研究室修了生ゲスト講評会」、東京芸術大学、2019年1月28日

[研究ノート]「思弁的実在論における読むことのアレルギー」、『現代思想』2019年1月号、p. 310

[対談]小倉拓也・福尾匠「新世紀ドゥルーズ論――絶望とともに生きて死ぬドゥルーズの哲学」『図書新聞』 第3379号、 2018年12月、1面-3面 

[レビュー]「異本の論理」、『アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ 公式パンフレット』、ザジフィルムズ、2018年11月、pp. 38-39

[インタビュー]「「メディアよりイメージを優先させる」態度」、『NOBODY』ウェブマガジン、NOBODY編集部、2018年11月

(記事URL:

https://www.nobodymag.com/journal/archives/2018/1011_0008.php

[展評] 「テーブルクロス・ピクチャープレーン」、ウェブ版美術手帖、2018年11月

(記事URL:https://bijutsutecho.com/magazine/review/18734 )

トーク福尾匠・大前粟生・黒嵜想、「『回転草』×『眼がスクリーンになるとき』刊行記念トークイベント——書くひとと書かれたひとは書かれたもののなかで手をつなげるか?」、出町座、2018年10月7日

トーク福尾匠・小倉拓也、「『カオスに抗する闘い』&『眼がスクリーンになるとき』発売記念 小倉拓也さん×福尾匠さんトークイベント ドゥルーズはなぜ面白いのか――哲学と芸術の狭間で」、紀伊国屋書店グランフロント大阪店、2018年10月6日

[エッセイ]「タフだが面白いものを/『シネマ』が複雑である意味」『週間読書人』第3258号、2018年9月、第3面

(ウェブ転載:

https://dokushojin.com/article.html?i=4310

トーク福尾匠・千葉雅也、「『眼がスクリーンになるとき -ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』-』『思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集』刊行記念福尾匠さん×千葉雅也さん トーク&サイン会」、ブックファースト新宿店、2018年9月20日  

トーク福尾匠・平倉圭・三浦哲哉・石岡良治、「『眼がスクリーンになるとき』+『オーバー・ザ・シネマ』刊行記念トークイベント」、横浜国立大学Y−GSCスタジオ、2018年9月10日 

トーク福尾匠・高橋明彦・星野太、「『眼がスクリーンになるとき』刊行記念トークイベント」、芸宿、金沢、2018年9月8日 

[インタビュー]「「単に見ること」が持つ可能性」、『朝日新聞』2018年9月8日朝刊、23面

(記事URL: https://book.asahi.com/article/11807240?cid=asadigi_culture_book

[エッセイ]「見て、書くことの読点について」、『新潮』2018年9月号、新潮社、2018年8月、pp. 244-245

(出版社URL:

http://www.shinchosha.co.jp/shincho/backnumber/20180807/

[単著]『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、フィルムアート社、2018年7月

(出版社URL:http://filmart.co.jp/books/jinbun/cinema/ *「はじめに」全文公開)

[書評]「プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退」、10+1web site、2018年7月

(記事URL:http://10plus1.jp/monthly/2018/07/issue-03.php )

[展評]「画鋲を抜いて剥がれたらそれは写真」、ウェブ版美術手帖、2018年6月

(記事URL:https://bijutsutecho.com/magazine/review/16887)

[展評]「瞬きである物体:ミンウー・リー「35º47'5"N 139º53'55"E」について」『PARADISE AIR LONGSTAY Program 2017 Document Book』、PARADISE AIR、2018年3月、pp. 57-63(*英訳付き)

(通販可能:

https://paradiseair.theshop.jp/items/11642454

[対談]長谷川新・福尾匠「発明されるべきものとしての形式」『STUDIO VOICE vol. 412』、INFASパブリケーションズ、2018年3月、pp. 180-181

[事典項目執筆]「パースペクティヴィズム」、『美術手帖 2017年12月号』美術出版社、2017年11月、p. 40

(出版社URL:http://www.bijutsu.press/books/2017/11/100.html

[展評]「鑑賞の氷点と融点:Surfin' 展評」、Surfin' アーカイブページ、2017年8月

(記事URL:http://surfin.host/review_fukuo.html

トーク山本浩貴・福尾匠「いぬのせなか座×アーギュメンツ#2トークイベント」 、美学校、2017年7月17日

(動画と配布資料を公開 https://youtu.be/ahkvQqiogA8

[口頭発表]"Deleuze's Anesthetics", Encounters with Japanese Artists, 草御殿, Taipei, June 3rd 2017 

[批評]「映像を歩かせる:『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」『アーギュメンツ#2』2017年5月、p. 28-37

[レクチャー]「5時間でわかるドゥルーズ『シネマ』」、クロニクル、クロニクル!、クリエイティブセンター大阪、2017年2月5日

(イベントページURL: http://www.chronicle-chronicle.jp/news/1295 *動画と配布資料を公開)

修士論文ジル・ドゥルーズ『シネマ』の虚像:知覚から身体へ」大阪大学文学研究科文化表現論専攻、2017年1月

トーク黒嵜想・福尾匠「映像批評の未来〜100年前の実験映画からシン・ゴジラまで〜」、クロニクル、クロニクル!、金沢美術工芸大学、2016年12月5日

(イベントページURL:  http://www.chronicle-chronicle.jp/news/1130 *動画を公開)

[レビュー]小泉明郎「CONFESSIONS」展:イメージの背中、告白の背理」、HAPS PRESS、2016年11月30日

(記事URL:http://haps-kyoto.com/haps-press/exhibition_review/10_2016/

[口頭発表]「わたしに身体を与えてください」、第12回ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ研究会、2016年11月

[口頭発表]「エリー・デューリングの映像論:トポロジカルな同時性とパースペクティブ」、第11回表象文化論学会研究発表大会、2016年11月

[口頭発表] “A View from Inside the System(s) of Cinema: Perception as Zeroness and the Structural Moment of the Passage to Time-image” , The 4th International Deleuze Studies in Asia Conference, Seoul University, June 2016

[批評]「In (Search of) a Lost Image, Lost in a Stage : 伊藤高志『三人の女』」、『hyphen』、ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ、第1号、2016年3月、pp. 22-26

(記事URL: https://dglaboratory.files.wordpress.com/2016/04/e7a68fe5b0be.pdf

[依頼翻訳]アンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」小倉拓也・福尾匠訳、『ドゥルーズ:没後20年 新たなる転回』、河出書房新社、2015年10月、pp. 42-63 

(出版社URL: http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309247359/

[口頭発表]「眼=カメラから眼=スクリーンへ:『シネマ』におけるふたつの受動性」、第3回ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ研究会、2015年5月

卒業論文「ルイス•ブニュエル『欲望のあいまいな対象』論」大阪大学文学部、2015年1月

(*本ブログにて公開 記事URL: http://scknglmn.hatenablog.com/entry/2017/01/30/201050

やさしさはひとにだれかのふりをさせる

(以下の文章は『新潮』2019年5月号に掲載された大前粟生の掌編集の書評です。同時に公開したエッセイとともにぜひご一読ください。公開許可は編集者さんからいただいております。)

 

やさしさはひとにだれかのふりをさせる  福尾匠
大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)書評

 

 いちばん長いもので、ちょうどこの書評とおなじくらいの長さになる、「掌編」という言葉にふさわしく手のひらをひとつかふたついっぱいに広げたくらいの「紙幅」の五三篇が収録されている。
「ふぅん。じゃあ私は、かなでちゃん、って紙に書いてたべてみる」(「かなでちゃん」)
 ストレスで紙を食べるようになったかなでちゃんは国語の教科書を食べると「ことばみたいな気持ち」になると話す。きわめてフィジカルな言葉との関係がここにはあり、「私」が紙を食べて「かなでちゃんみたいな気持ち」になるのだとしたらその関係はさらにただちに、「私」の変容にもかかわっていることになる。本書はこのような言葉のあやうい力をあつかい、実践している。つまり、言葉を食べ、それによって食べられるという関係性が描かれているだけでなく、この本そのものがあざやかな果物たちの乗ったケーキでもある。どうやって切れ目を入れようか。
 言葉にフィジカルな力をみとめるということは、これは言葉にすぎないんですよ、という、言葉と現実とのあいだに距離をつくるような態度を取らないということを意味する。つまり「もののたとえ」というものが介在する余地はなくなってしまう。病気になった猫のために、猫と自分の顔の刺繍を縫う「僕」は、余白に入れた太陽に目を描いたとたんに、それが「ひとの顔のようだったので、その下に首と上着を作った」。猫と「僕」だけの空間に知らないひとが闖入する。「ひとの顔のようだった」という喩えはたんなる喩えではすまず、あらがいようもなくひとの顔がそこに実現されてしまう(「刺繍」)。二度ムキになったママはムキムキになって、車両はママの筋肉でぱんぱんになってしまう(「ムキムキ」)。妹にトイレットペーパーを巻くとミイラのようで、両親を殺してしまう。ミイラにして蘇らせた両親と妹を連れて外に出るとそこは吹雪で、地球全体がトイレットペーパーに巻かれたようだ(「ミイラ」)。
 大前粟生の小説は、言葉にフィジカルな力をもたせることと、最果タヒが帯文に書いたように「奇天烈」な物語を駆動することの両輪によって作られていると、ひとまずは言うことができる。真面目な言葉とふざけた言葉、客観的な説明と主観的な意見、指示と喩えの分割は、言葉に対して距離を置くことのできる人間にとってしか役立たない。よかれ悪しかれ、私たちはそうした距離の失調しつつある時代を生きている。あらゆる言葉は信じることができるかどうか、共感できるかどうかで測られる。現代が共感と反感の時代に、あるいは視覚的コミュニケーション優位の時代になったと言うだけでは片手落ちだ。その一方で言葉の使われ方も変化しているはずであり、小説が察知するべきはその変化だろう。突飛な物語のほうに目を取られてしまい見えにくいかもしれないが、大前の小説は言葉と感情、言葉と身体の直接的な関係の回路を極限まで加速させ、そのあやうさと希望、恐怖とやさしさをともに示してみせる。
「私たちは超スピード過ぎた。超スピードの肉体が意識を追い越し過ぎて負荷にまみれた」(「世界ブランコ選手権こどもの部決勝戦」)
 見開き一ページほどを超スピードで踏破する掌編群の速さもたんに物語の展開の速度として考えることはできない。取り返しがつかないほど漕ぎ過ぎてしまったブランコのように言葉が私たちを引きずり回す。その速度に比例して一語一語が圧縮され、小説は「余白」や「行間」のようなものとは無縁になる。なぜなら、喩えでしかないものの領分が失効するとき、描写は筋を際立たせるためのものではなくなり、内面は行動を際立たせるためのものではなくなるからだ。それらはどれも言葉であることにおいて等価になる。いかなるまどろっこしさもなくブランコの鎖のように一列に並んだ言葉は、速く、強く、そしてこれ以上なく読みやすいものになる。それはつねに言葉を感情や身体への影響とセットで用いることで、言語にこだわること自体を物語のドライブにしているからだろう。
こっくりさんはプーさんのぬいぐるみのなかに入った。助かる〜、と、こっくりさんはいった。私は、くまのプーさんが大好きだった。しかも、喋るだなんて!」(「こっくりさん」)
 こっくりさんは私たちを振り回す言葉そのものだ。五十音表のうえに置かれた十円玉の挙動として彼女は私たちを動揺させる。大前の小説ではあらゆる言葉がこっくりさん的な作用をもつので、彼女は「こっくり—プーさん」となり「私」と対等な関係をむすぶと同時に、過去形の叙述に割り込む「喋るだなんて!」は「私」と読者をおなじ時間に置く。「私」はこっくり—プーさんをお姉ちゃんと呼ぶが、呼び名というものの強力さは「妹はあほ。私はお姉さん」と固定的な役割のもとへ分断するものでもあり、シーツをかぶっておばけになった妹はさらにだれにも相手にされなくなって死んでしまう(「おばけの練習」)。
「うそだよ」(「私と鰐と妹の部屋」)
 と、自分の出自の説明を打ち消すこの地の文は読者との関係にまで言葉の力を延長する。打ち消された出自はすでに発されたということによって現存し続ける。「歯医者さんではない」と繰り返されるその部屋は繰り返されるほどに歯医者さんとしてリアリティを獲得していく(「歯医者さんの部屋」)。しかしそこはあくまで歯医者さんではなく、彼女の悲しさになりたい「僕」が冬の汚いプールを「悲しさ」として泳ぎ続けても、彼女と一緒にどろどろにとろけてしまうことはできない(「僕は泳いだ」)。
「ひぃおじいちゃんのふりをしている。私より年下なのに、やさしいね」(「お墓」)
 やさしさが宿るのは、だれかと一緒にどろどろにとろけてしまうことのできない悲しさの距離のなかであるとともに、だれかのふりをして、だれかの代わりに話す嘘のなかだ。お墓のうしろでだれかが代わりに応えてくれている。やさしさはひとにだれかのふりをさせる。共感の時代を「私は私、われわれはわれわれ、お前はお前」の時代にしないやさしさの実験を、その対決の恐ろしさとともにこの本は引き受けている。

(初出:「新潮」2019年5月号)

 

見て、書くことの読点について

(以下の文章は『新潮』2018年9月号に掲載されたエッセイです。同時に公開した大前粟生『私と鰐と妹の部屋』書評とともにぜひご一読ください。公開許可は編集者さんからいただいております。)

 

 

見て、書くことの読点について  福尾匠

 美術史であれ、美学であれ、芸術をあつかう学問の研究者がなにをしているかというと、基本的には「見て、書く」ということをやっている。『眼がスクリーンになるとき——ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』であつかった『シネマ』も、ドゥルーズという哲学者が映画を見て、書いた本だ。僕がこの本をとおして考えたのは「見て、書く」とはどういうことなのか、そのためには「見る」と「書く」がそれぞれどのようなものであるべきなのかということだ。
『眼がスクリーンになるとき』の冒頭に僕は「本書を読むにあたって、ドゥルーズについても、哲学についても、映画理論についても知っている必要はない。映画をどれだけ見たことがあるかということもまったく問題にならない。いずれにせよ本を読みながら映画を見ることはできないのだから」と書いた。本を読みながら映画を見ることはできない。だから映画の本を読むためにわざわざ映画を見なくてもよい。
 ドゥルーズは「見て、書いた」が、「見ながら書いた」わけではない。これはたんに彼の時代にVHSもDVDも存在しなかったからというわけではなく、いくら映画を見直すための手段が充実しても、見ることと書くことのあいだには原理的でフィジカルな距離が存在している。そこに滑り込むものをたんなる忘却や思いちがいとして放逐しようとすると、見て、書いて、見て、書いて、見て……とえんえん見まちがいの不安に怯えながらくわしいだけの描写を積み上げていくことになるだろう。どうせ見ながら書くことはできないのだから、見ることと書くことの「距離」を条件にしたような書き方を考えたほうがいいのではないか。見ることと書くことのあいだの読点を足場にすること。これはべつに哲学者や美術史家にとってだけでなく、ひろい意味で「経験」を書くことの源泉とする小説家や詩人にも当てはまるはずだ。

 本の執筆は遅々として進まず、僕は気晴らしにというよりはやむにやまれず毎日のように散歩をしていた。ある夕方、道端に灰色と青みがかった鈍色のまじった塊が落ちており、それが視野に入ったときに鳩の死骸だと思ったが、もう一歩近づくと新聞紙で、その「新聞紙だ、と思った」瞬間に「新聞紙だと思ったら鳩の死骸だった」と状況を把握してしまう。目の前にはとうぜん新聞紙でしかないものがあり、「鳩の死骸だった」という宛先のない感覚と新聞紙でしかないものの不気味さがおなじくらいのリアリティを持つ。僕はしばらくその新聞紙でしかないものをためつすがめつ眺めて、「鳩の死骸だった」という鮮烈な「経験」を、僕と新聞紙でしかないものとのあいだでどうやって折り合いをつければよいのか困りはててしまった。
 僕は歩いていて、鳩の死骸だと思うかいなかのあいだに、すでにつぎの一歩は踏み出され、そうするともう新聞紙でしかないものがある。その驚きとともに経験は意識化される。その時点の「新聞紙だ、と思った」から経験の書き出しをおこなってしまう。そこに「〜だと思ったら〜だった」というある種の関数がやってくる。そして一歩前の僕は実際に「鳩の死骸だ(と思っていた)」という経験をしている。これらの要因から「新聞紙だと思ったら鳩の死骸だった」というイメージが刻み込まれてしまったのだろうか。やはり見ることと書くことのあいだには不思議な回路が埋め込まれているようだ。このことについていくつか思い出す文章がある。

 磯崎憲一郎の小説『終の住処』にはつぎのような場面がある。主人公の男が公園を歩いていると、沼のほとりにひとりのおじいさんが立って、水面に向けて両手をかざしている。するとどこからか轟音が鳴り響き、主人公はおじいさんがこれから沼に滝を落とそうとしているのだと思う。彼が空を見上げると、ヘリコプターが飛んでいる。「おじいさんが沼に滝を落とす」というイメージの強さと、飛んでいるヘリコプターのあっけなさ。主人公はヘリコプターでしかないものをしばらく、僕のようにいぶかしげに眺めたことだろう。

 詩人、貞久秀紀の言語論『雲の行方』からも例をふたつ。
 ひとつめ。あるひとが山道を歩いている。とつぜん峠に差しかかり景色がひらけると、爽やかな風とともに大空があらわれ、それがあまりに澄み渡っていたのでそのひとは「湖のような空」だと思うが、すぐにそれが本物の湖だと気づく。実際は「空のような湖」だったということだ。貞久はこのことを「空」という比喩が「先まわりをして知覚されている」と書いている。湖を湖として見たあとに「空のような湖」と書くことが「ふつう」の順番だが、このひとは先に「空」を知覚してしまう。するとその「空」は、湖でしかないものを前に、そこに「のような」という穏当な回路を挟み込みようがないほどに、独立したリアリティをそのひとに書き込んでしまう。

 ふたつめ。「幻肢痛」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。欠損した体の一部に感じる痛みのことだ。ない指が、あるかのように痛む。しかし痛みが激しくなり、そこに指があるとしか思えなくなったとき、指に目を向けてみるとそこに指はやはりなく、「このひとはつかのま、そこに「ある」はずの指が「ないかのように」感じられる。すなわち、実際には「ない」にもかかわらず、「ないかのように」感じられる」。こんどは事実に反した比喩を先まわりして知覚するのでなく、「ない」という事実を知覚しているのに、それが比喩としか思えないという反転が起こっている。「反実仮想」の「実」と「仮」が圧着する。指は、ないかのようにない。

 すると、貞久が言うように「なにも居ぬごときが時の金魚玉」(阿波野青畝)という句が、実際は金魚がいるのにいないかのように静かな金魚鉢を示しているのでなく、「いないかのようにいない」静けさを示しているようにも思えてくる。事実を比喩として提示しているのか、比喩が事実として迫ってくるのか、もはやわからない。

 見ることと書くことのあいだにある回路は、この事実と比喩が識別不可能になる点をめぐっているように思える(『シネマ』にはこれに近いことを指す「結晶イメージ」という概念が出てくる)。見たものを書いているのか、頭のなかに書いてしまったものを見ているのか。それらは前後し、すれ違い、反転する。これはたんに見まちがいを擁護するということではない。「見て、書く」ことの読点に、哲学さえもそこに含まれるフィクションとしての創造の原器を、僕は見ている。

 

(初出:「新潮」2018年9月号)

卒論公開

2015年1月に提出した卒業論文、「ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』論」を公開します。

 

本文

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シーン分析表

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修士論文を書き終わって振り返ってみると、なおさら「よく書いたなあ」と思うと同時に、ドゥルーズだデューリングだと言っているあたり、大して変わっていないのかなとも思う。

研究発表のお知らせ(11/5 表象文化論学会)

11月5日に表象文化論学会の第11回研究発表集会で、「エリー・デューリングの映像論:トポロジカルな同時性とパースペクティブ」という発表をすることになりました。

www.repre.org

ひとつ前の記事はその予告編であるわけですが、ついでにこの発表の申し込みに際して作成したアブストラクトを公表しておきます。600字に満たないものなのですが、来られるかどうかお考えのかたは参考になさってください。

 

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 本発表は、近年「プロトタイプ論」によって注目されているフランスの哲学者、エリー・デューリング(Elie During)の映像論を取り上げる。彼の映像にまつわる論考がまとめられたFaux raccords: La coexistence des images (Actes Sud, 2010)は、映像空間をひとつの仮想的な世界として捉え、そこで繰り広げられるイメージの共存と連鎖を分析することで時間、空間というカテゴリーを更新することを狙った書物である。これは、ジル・ドゥルーズ『シネマ』の問題設定を引き受けた、ドゥルーズ以降最新にして最初の主要な試みであると言えるだろう。とはいえ、Faux raccordsは論文集であり、それぞれの論文でなされる個別の映像作品についての考察の背景にある時間、空間論を統一的に把握することは難しい。そこで本発表では、「トポロジー」、「パースペクティブ」、「知覚と記憶の同時性」、「虚構−芸術」などの、本書を通して重要な機能を持ついくつかの概念を取り上げ、それらの関係を仮設的に規定することでデューリングの映像論から構築しうる時空的なシステムを提示し、その帰結としての「プロトタイプ」の機能を明確にすることを試みる。デューリングの映像論は、メディア論や文化論に還元され得ない映像が持つ哲学的な射程を再検討するきっかけをわれわれに与えてくれるだろう。

 

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世界同時多発世界地図:エリー・デューリングのプロトタイプ論について

 地球が球形であることを前提とした世界地図の、最初の一般化したバージョンは「メルカトル図法」によるものだろう。これは地球を円筒の中にすぽっと入れて、その内側の側面に地球の外面を投射することによって得られる地図である。この図法の利点は四角い紙に全体を描くことができることにあるが、南極、北極に近づくに従って縮尺が横に伸びてしまい、実際の大きさ、形とは懸け離れたものになってしまう。
 次に、バックミンスター・フラーの発明した「ダイマクション図法」は、正二十面体に地球を投射したものであり、縮尺の歪みははるかに少なく抑えることができるが、当然出来上がる地図は正二十面体の展開図であり、長方形とは程遠いジグザグした形になってしまう。
 世界を一望のもとに収めることの原理的な不可能性と、われわれが世界地図によってそれをある意味で成し得てしまっているという事実性とのギャップには、なにが横たわっているのだろうか。

 10+1のウェブサイトに掲載されたエリー・デューリング、清水高志柄沢祐輔による鼎談が主題としている、同時性、一と多、パースペクティブなどのテーマも、この問題の周囲を巡っているように思える。

10plus1.jp

 エリー・デューリングは、「プロトタイプ論」によって哲学あるいは芸術学の分野で注目されている哲学者である。鼎談の中で彼はプロトタイプを次のように規定している。

オブジェクトそのものを、プロジェクトとして見ることができるというのが、その基本的な考えです。それがあるプロジェクトの特定の局面の、限られた表現だけを与えるものだったとしてもです。プロジェクトは、オブジェクトを超えてあるのではなく、オブジェクトのなかにあるんです。またオブジェクトは、それ自身で未来との関係を持っている。未来とは外部に横たわっているものではありません。それは内部にあり、オブジェクトに閉じ込められているのです。

あるいは

プロトタイプとしての芸術作品は、観念的でありながら実験的であるという、通常は切り離されている2つの方向性を統合するものです。観念化と実験が手に手を取っているんです。そんなわけで、アートオブジェクトは、それ自身の生成に先立つものでもなければ、その結果でもありません。真にその生成と、時を同じくしている(contemporary)のです。プロトタイプとしての作品は、その生成のおのおのの段階で立ち現われる。[中略]

その切断は、観念的で実験的なフォーマット、つまり後に異なる形態で遂行されるのかも、されないのかもわからない作品/プロジェクトの確かな潜在性を試し、査定するための目に見える枠組みを提供してくれるんです。

 こうしたプロトタイプというアイデアは、芸術作品を無限の理念の限定として捉える「狭義の」ロマン主義的美学を、そして作品それ自体より作品制作のプロセスを重視する、あるいはより極端にプロセス自体が作品なのだと主張する関係論的な現代アートに見られる潮流さえも広い意味でロマン主義的な枠組みから逃れるものではないと批判するものだ。プロトタイプ論が提示するポジティブな側面は、プロセスの「切断」としてオブジェクト(美術作品であれ建築であれ)を捉えることによって、オブジェクト自体にそれ固有の未来や、パースペクティブの共存を見出すことにある。

 以下ではそうした「切断」がどのようなものであるのかを考えてみよう。鼎談のなかにもそのヒントはたくさん散りばめられているが、彼の主に映像作品を扱う論文集『つなぎ間違い:イメージの共存』(Faux Raccords: La coexistence des images(2010, Actes Sud))も取り上げつつ論じる。本書は論文集であり体系的な叙述がなされているわけではないが、ここでは見通しをよくするために幾つかの概念を取り上げそれらの関係を仮設的に規定することを試みる。

  冒頭の世界地図の例に戻る。球形の地球の全面をそのまま一望することは不可能だ。われわれはつねに最大で半分の面積しか視野に収めることができない。しかし、球面にある種のトポロジカルな操作を加えればそれは可能になる。紙風船にハサミを入れて全ての面が見えるようにテーブルに置くことを想像してみると、どうやっても切れ目同士の間隙や表面のたわみを完全に取り除くことができないのがわかるだろう。上に説明した二つの図法はいわば、地球にハサミを入れて表面を引き延ばす際のルール、あるいは「フォーマット」なのだ。

  デューリングが「切断」という言葉で言わんとしているのも、このようなある種のフォーマットに沿ったものであるだろうし、彼が鼎談の終盤で示唆する新たな「グローバリゼーション」の必要性へのひとつの応答としてこのトポロジカルな切断の技法を考えることもできる。世界地図であればあらかじめ「正解」あるいは「モデル」としての地球が前提とされてしまうように思えるが、ここで重点を置くべきはむしろ、切断のプログラムの設定によって世界がそのつど投射(project)され生み出されるということであるだろうし、オブジェクトにプロセスが内在化されるというプロトタイプのありかたは、「地球(globe)」を巡って制作されるさまざまな地図が他の地図と競合しながらグローバルなもののイメージを複数化するという、清水がいう「一と多」の往還を織り込んだものであるだろう。身体的なパースペクティブが視覚的なパースペクティブと齟齬をきたしながら共存する柄沢によるs-houseが、ひとつの建物でありながらつねに離接やずれを引き起こすように。

 デューリングにおける「切断」のひとつの例として『つなぎ間違い』におけるヒッチコックの『めまい』論(p. 29-80)を挙げることができるだろう。 ここでは「空間のタイプ(type d’espace)」という彼の概念が切断のプログラムに対応するものとして考えられる。ここで彼は『めまい』という映画作品を統御する空間のタイプとして、「メビウスの輪」というトポロジカルな形象を取り上げる。つまり、いわば『めまい』というオブジェクトは、世界をメビウスの輪に投射したもの、あるいはメビウスの輪というフレームによって見られる世界として考えられるのである。そして、マデリンとジュディの反転と同一性というパラドックスが、デジャ・ヴュにおける知覚と記憶の反転(ベルクソン)に重ね合わされることで、空間のタイプはたんにオブジェクトのトポロジカルな性質を指すだけではなく、そのなかで流れる時間の固有性を含意してもいることがわかる。

 あるいは、アメリカのテレビドラマ『24』における分割スクリーンをめぐる論考(p. 155-183)をもうひとつの例としてあげることができる。「リアルタイム」で進行するサスペンスのなかで同時的な複数のシーンが共存し、かつそれらの相互の連絡が行われるのを提示する分割スクリーン。こうした現代的な状況は即時の(immediate)コミュニケーションを可能にし、空間的距離を抹消するものとして危惧されたり称揚されたりするものであるが、ポール・ヴィリリオに典型的なこの「空間の消滅」という考えをデューリングは批判する。分割スクリーンの効果はむしろ、同時的なシーン相互の連絡の有限性によって発揮される。切れてしまう通信、電話しながらの裏切り行為といったコミュニケーションの有限性だけでなく、画面外空間の増殖による「縁(fringe)」の重ね合わせが、この作品における分割スクリーンを「パノプティック」という素朴な一と多の関係でなく、絶えざる切断と接続によって露わにされる「断片による全体化」を打ち立てるものにする。(*なお、この点については、マルチスクリーンを用いた映像作品の批評である拙論「In (Search of) a Lost Image, Lost In a Stage:伊藤高志『三人の女』」 に詳しい)

 この二つの例からわかるのは、「切断」はなんらかのトポロジカルな構造(空間のタイプ)に沿ってなされ、それによって切断されたものがプロトタイプであること(あるいは、プロトタイプは自らを切断とみなすことによって新たなビジョンを投射するものであること)。空間のタイプは、メビウスの輪のような歪みを持ったものであったり、分割スクリーンのように断片的なものであったりするが、パースペクティブの共存の形式として提示されること。おのおののパースペクティブは、固有の外部(縁)を備えており、空間のタイプはそれぞれのアナクロニックな干渉の様態を規定するものであること、である。

 デューリングのプロトタイプ論がグレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」とは異なるのは、前者がつねに時間、空間というカテゴリーのなかで、あるいはそれを更新するためにオブジェクトを思考している点にあるだろうし、だからこそ映像、建築、美術は彼の哲学のマトリクスとなりうる。代替因果と緩衝因果という概念構成に見られるように、ハーマンはつねに論理的な関係のもとでオブジェクトを捉えているように思われる(それが絶対的な非ー関係に向かうものであるにせよ)。

 われわれが欲するのはイメージである。

 

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映画評:トッド・ヘインズ『キャロル』

2016年2月12日、TOHOシネマズ梅田にて鑑賞(作品公式サイト

二度繰り返されることになる、冒頭のリッツでの出し抜けの別れ。当然観客はこのときそれが繰り返されるとも知らないし、終盤になるまでリッツでの会食をふたりの物語のなかでどの時点に位置づければよいのかもわからない。実のところこの冒頭のシーン(あとでジャックと呼ばれる男がリッツへと入り、テレーズを発見し、キャロルが立ち去り、テレーズが窮屈な後部座席で濡れた窓越しに外を眺めるまで)を厳密に物語論的に位置付けることは不可能である。

というのも(もちろんそれは繰り返されたときに時間的な位置づけを受け取るし「そういうことだったのか」という納得を誘うものであるのだが)まさしくこのシーンの終わり方が問題になるからだ。テレーズの顔が内側は曇り外側は雨に濡れたガラス越しに大写しになる。踏切の警告音と電車の走行音とともに画面はアウトフォーカスし、ジオラマを走る電車、デパートでのテレーズとキャロルのファースト・サイトの場面へとショットが矢継ぎ早に切り替わり、テレーズがデパートで働くシーンへと視点は落ち着く。そして約2時間後、私たちはまたリッツから窮屈な車に乗ってパーティへと向かうテレーズを見ることになる。ならば冒頭のシーンの終わりは、回想を呼び出すものと考えるべきなのだろうか。しかしそうすると冒頭のシーン以外はすべて回想だということになってしまうし、リッツからジャックとともにパーティへ向かったテレーズのその後を見ているわれわれはいつの間にか回想が始まった時点を追い越してしまったことになる。回想の内容が回想を始めた時点を追い越してしまうなどということはあり得ない。
私はこの「不整合」を糾弾したいわけではもちろんない。むしろこの作品における車中のシーンはことごとく素晴らしいものだと考えている。実はテレーズが水の滴る窓から外を眺める同じショットが登場する場面はもうひとつある。それは、キャロルが娘のためにクリスマス・ツリーを買いに行くのにテレーズがついて行く場面。テレーズはキャロルの助手席に座っている。車がトンネルに入り、電灯の光が尾を引いて飛び去って行く。ここでなぜか雨も降っていないのに例のショットが挿入され、トンネルの出口でのホワイトアウト、画面に奇妙な浮遊感をたたえたまま、キャロルをこっそり写真に収めるテレーズ。加えて、唯一キャロルが後部座席から眺めた風景が主観ショットで提示される場面。そこで彼女は仕事へ向かうテレーズを視線で追いかける。この作品において車は移動手段である以上に、ふたりの主人公の内面がその窓に映り込むガラスの箱である。ガラスは透明であるが、外部の光をその表面に映さずにはおかない。ジャック・タチが『プレイタイム』でその性質をギャグに取り込み、最近では濱口竜介の『ハッピーアワー』におけるフロントガラスに映り込む並木の梢が印象的だったが、「半透明の美学」とは見えそうで見えないもの(ヴェールをかけられたもの)の美のことではなく見ているものがあるそこから見えるものが映り込んでしまうことの二重性の美なのではないだろうか。ドゥルーズが「結晶イメージ」という概念で意味していたのはまさに見ているものと思い出しているもの、思い描いているものが識別できなくなってしまうようなイメージのことだった。
テレーズは車内でぐったりしながらキャロルとのファースト・サイトを追憶し(電車の走行音→ジオラマの電車→デパートでのキャロルとの出会い)、テレーズから身を引き離したことを後悔するキャロルは車内からテレーズの姿を探し求める(キャロルとアビーは「オープンカー」に乗っていることを想起してもいいかもしれない)。最後の場面、ふたりは、180度の切り返しで正面からしっかりと見つめ合う。幻想は横断され=通り抜けられtraversé、ふたりは互いの関係を誰のせいでもなく終わりうるものとして捉えることがもうできている。

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(写真と本文は無関係)