やさしさはひとにだれかのふりをさせる

(以下の文章は『新潮』2019年5月号に掲載された大前粟生の掌編集の書評です。同時に公開したエッセイとともにぜひご一読ください。公開許可は編集者さんからいただいております。)

 

やさしさはひとにだれかのふりをさせる  福尾匠
大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)書評

 

 いちばん長いもので、ちょうどこの書評とおなじくらいの長さになる、「掌編」という言葉にふさわしく手のひらをひとつかふたついっぱいに広げたくらいの「紙幅」の五三篇が収録されている。
「ふぅん。じゃあ私は、かなでちゃん、って紙に書いてたべてみる」(「かなでちゃん」)
 ストレスで紙を食べるようになったかなでちゃんは国語の教科書を食べると「ことばみたいな気持ち」になると話す。きわめてフィジカルな言葉との関係がここにはあり、「私」が紙を食べて「かなでちゃんみたいな気持ち」になるのだとしたらその関係はさらにただちに、「私」の変容にもかかわっていることになる。本書はこのような言葉のあやうい力をあつかい、実践している。つまり、言葉を食べ、それによって食べられるという関係性が描かれているだけでなく、この本そのものがあざやかな果物たちの乗ったケーキでもある。どうやって切れ目を入れようか。
 言葉にフィジカルな力をみとめるということは、これは言葉にすぎないんですよ、という、言葉と現実とのあいだに距離をつくるような態度を取らないということを意味する。つまり「もののたとえ」というものが介在する余地はなくなってしまう。病気になった猫のために、猫と自分の顔の刺繍を縫う「僕」は、余白に入れた太陽に目を描いたとたんに、それが「ひとの顔のようだったので、その下に首と上着を作った」。猫と「僕」だけの空間に知らないひとが闖入する。「ひとの顔のようだった」という喩えはたんなる喩えではすまず、あらがいようもなくひとの顔がそこに実現されてしまう(「刺繍」)。二度ムキになったママはムキムキになって、車両はママの筋肉でぱんぱんになってしまう(「ムキムキ」)。妹にトイレットペーパーを巻くとミイラのようで、両親を殺してしまう。ミイラにして蘇らせた両親と妹を連れて外に出るとそこは吹雪で、地球全体がトイレットペーパーに巻かれたようだ(「ミイラ」)。
 大前粟生の小説は、言葉にフィジカルな力をもたせることと、最果タヒが帯文に書いたように「奇天烈」な物語を駆動することの両輪によって作られていると、ひとまずは言うことができる。真面目な言葉とふざけた言葉、客観的な説明と主観的な意見、指示と喩えの分割は、言葉に対して距離を置くことのできる人間にとってしか役立たない。よかれ悪しかれ、私たちはそうした距離の失調しつつある時代を生きている。あらゆる言葉は信じることができるかどうか、共感できるかどうかで測られる。現代が共感と反感の時代に、あるいは視覚的コミュニケーション優位の時代になったと言うだけでは片手落ちだ。その一方で言葉の使われ方も変化しているはずであり、小説が察知するべきはその変化だろう。突飛な物語のほうに目を取られてしまい見えにくいかもしれないが、大前の小説は言葉と感情、言葉と身体の直接的な関係の回路を極限まで加速させ、そのあやうさと希望、恐怖とやさしさをともに示してみせる。
「私たちは超スピード過ぎた。超スピードの肉体が意識を追い越し過ぎて負荷にまみれた」(「世界ブランコ選手権こどもの部決勝戦」)
 見開き一ページほどを超スピードで踏破する掌編群の速さもたんに物語の展開の速度として考えることはできない。取り返しがつかないほど漕ぎ過ぎてしまったブランコのように言葉が私たちを引きずり回す。その速度に比例して一語一語が圧縮され、小説は「余白」や「行間」のようなものとは無縁になる。なぜなら、喩えでしかないものの領分が失効するとき、描写は筋を際立たせるためのものではなくなり、内面は行動を際立たせるためのものではなくなるからだ。それらはどれも言葉であることにおいて等価になる。いかなるまどろっこしさもなくブランコの鎖のように一列に並んだ言葉は、速く、強く、そしてこれ以上なく読みやすいものになる。それはつねに言葉を感情や身体への影響とセットで用いることで、言語にこだわること自体を物語のドライブにしているからだろう。
こっくりさんはプーさんのぬいぐるみのなかに入った。助かる〜、と、こっくりさんはいった。私は、くまのプーさんが大好きだった。しかも、喋るだなんて!」(「こっくりさん」)
 こっくりさんは私たちを振り回す言葉そのものだ。五十音表のうえに置かれた十円玉の挙動として彼女は私たちを動揺させる。大前の小説ではあらゆる言葉がこっくりさん的な作用をもつので、彼女は「こっくり—プーさん」となり「私」と対等な関係をむすぶと同時に、過去形の叙述に割り込む「喋るだなんて!」は「私」と読者をおなじ時間に置く。「私」はこっくり—プーさんをお姉ちゃんと呼ぶが、呼び名というものの強力さは「妹はあほ。私はお姉さん」と固定的な役割のもとへ分断するものでもあり、シーツをかぶっておばけになった妹はさらにだれにも相手にされなくなって死んでしまう(「おばけの練習」)。
「うそだよ」(「私と鰐と妹の部屋」)
 と、自分の出自の説明を打ち消すこの地の文は読者との関係にまで言葉の力を延長する。打ち消された出自はすでに発されたということによって現存し続ける。「歯医者さんではない」と繰り返されるその部屋は繰り返されるほどに歯医者さんとしてリアリティを獲得していく(「歯医者さんの部屋」)。しかしそこはあくまで歯医者さんではなく、彼女の悲しさになりたい「僕」が冬の汚いプールを「悲しさ」として泳ぎ続けても、彼女と一緒にどろどろにとろけてしまうことはできない(「僕は泳いだ」)。
「ひぃおじいちゃんのふりをしている。私より年下なのに、やさしいね」(「お墓」)
 やさしさが宿るのは、だれかと一緒にどろどろにとろけてしまうことのできない悲しさの距離のなかであるとともに、だれかのふりをして、だれかの代わりに話す嘘のなかだ。お墓のうしろでだれかが代わりに応えてくれている。やさしさはひとにだれかのふりをさせる。共感の時代を「私は私、われわれはわれわれ、お前はお前」の時代にしないやさしさの実験を、その対決の恐ろしさとともにこの本は引き受けている。

(初出:「新潮」2019年5月号)