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世界同時多発世界地図:エリー・デューリングのプロトタイプ論について

 地球が球形であることを前提とした世界地図の、最初の一般化したバージョンは「メルカトル図法」によるものだろう。これは地球を円筒の中にすぽっと入れて、その内側の側面に地球の外面を投射することによって得られる地図である。この図法の利点は四角い紙に全体を描くことができることにあるが、南極、北極に近づくに従って縮尺が横に伸びてしまい、実際の大きさ、形とは懸け離れたものになってしまう。
 次に、バックミンスター・フラーの発明した「ダイマクション図法」は、正二十面体に地球を投射したものであり、縮尺の歪みははるかに少なく抑えることができるが、当然出来上がる地図は正二十面体の展開図であり、長方形とは程遠いジグザグした形になってしまう。
 世界を一望のもとに収めることの原理的な不可能性と、われわれが世界地図によってそれをある意味で成し得てしまっているという事実性とのギャップには、なにが横たわっているのだろうか。

 10+1のウェブサイトに掲載されたエリー・デューリング、清水高志柄沢祐輔による鼎談が主題としている、同時性、一と多、パースペクティブなどのテーマも、この問題の周囲を巡っているように思える。

10plus1.jp

 エリー・デューリングは、「プロトタイプ論」によって哲学あるいは芸術学の分野で注目されている哲学者である。鼎談の中で彼はプロトタイプを次のように規定している。

オブジェクトそのものを、プロジェクトとして見ることができるというのが、その基本的な考えです。それがあるプロジェクトの特定の局面の、限られた表現だけを与えるものだったとしてもです。プロジェクトは、オブジェクトを超えてあるのではなく、オブジェクトのなかにあるんです。またオブジェクトは、それ自身で未来との関係を持っている。未来とは外部に横たわっているものではありません。それは内部にあり、オブジェクトに閉じ込められているのです。

あるいは

プロトタイプとしての芸術作品は、観念的でありながら実験的であるという、通常は切り離されている2つの方向性を統合するものです。観念化と実験が手に手を取っているんです。そんなわけで、アートオブジェクトは、それ自身の生成に先立つものでもなければ、その結果でもありません。真にその生成と、時を同じくしている(contemporary)のです。プロトタイプとしての作品は、その生成のおのおのの段階で立ち現われる。[中略]

その切断は、観念的で実験的なフォーマット、つまり後に異なる形態で遂行されるのかも、されないのかもわからない作品/プロジェクトの確かな潜在性を試し、査定するための目に見える枠組みを提供してくれるんです。

 こうしたプロトタイプというアイデアは、芸術作品を無限の理念の限定として捉える「狭義の」ロマン主義的美学を、そして作品それ自体より作品制作のプロセスを重視する、あるいはより極端にプロセス自体が作品なのだと主張する関係論的な現代アートに見られる潮流さえも広い意味でロマン主義的な枠組みから逃れるものではないと批判するものだ。プロトタイプ論が提示するポジティブな側面は、プロセスの「切断」としてオブジェクト(美術作品であれ建築であれ)を捉えることによって、オブジェクト自体にそれ固有の未来や、パースペクティブの共存を見出すことにある。

 以下ではそうした「切断」がどのようなものであるのかを考えてみよう。鼎談のなかにもそのヒントはたくさん散りばめられているが、彼の主に映像作品を扱う論文集『つなぎ間違い:イメージの共存』(Faux Raccords: La coexistence des images(2010, Actes Sud))も取り上げつつ論じる。本書は論文集であり体系的な叙述がなされているわけではないが、ここでは見通しをよくするために幾つかの概念を取り上げそれらの関係を仮設的に規定することを試みる。

  冒頭の世界地図の例に戻る。球形の地球の全面をそのまま一望することは不可能だ。われわれはつねに最大で半分の面積しか視野に収めることができない。しかし、球面にある種のトポロジカルな操作を加えればそれは可能になる。紙風船にハサミを入れて全ての面が見えるようにテーブルに置くことを想像してみると、どうやっても切れ目同士の間隙や表面のたわみを完全に取り除くことができないのがわかるだろう。上に説明した二つの図法はいわば、地球にハサミを入れて表面を引き延ばす際のルール、あるいは「フォーマット」なのだ。

  デューリングが「切断」という言葉で言わんとしているのも、このようなある種のフォーマットに沿ったものであるだろうし、彼が鼎談の終盤で示唆する新たな「グローバリゼーション」の必要性へのひとつの応答としてこのトポロジカルな切断の技法を考えることもできる。世界地図であればあらかじめ「正解」あるいは「モデル」としての地球が前提とされてしまうように思えるが、ここで重点を置くべきはむしろ、切断のプログラムの設定によって世界がそのつど投射(project)され生み出されるということであるだろうし、オブジェクトにプロセスが内在化されるというプロトタイプのありかたは、「地球(globe)」を巡って制作されるさまざまな地図が他の地図と競合しながらグローバルなもののイメージを複数化するという、清水がいう「一と多」の往還を織り込んだものであるだろう。身体的なパースペクティブが視覚的なパースペクティブと齟齬をきたしながら共存する柄沢によるs-houseが、ひとつの建物でありながらつねに離接やずれを引き起こすように。

 デューリングにおける「切断」のひとつの例として『つなぎ間違い』におけるヒッチコックの『めまい』論(p. 29-80)を挙げることができるだろう。 ここでは「空間のタイプ(type d’espace)」という彼の概念が切断のプログラムに対応するものとして考えられる。ここで彼は『めまい』という映画作品を統御する空間のタイプとして、「メビウスの輪」というトポロジカルな形象を取り上げる。つまり、いわば『めまい』というオブジェクトは、世界をメビウスの輪に投射したもの、あるいはメビウスの輪というフレームによって見られる世界として考えられるのである。そして、マデリンとジュディの反転と同一性というパラドックスが、デジャ・ヴュにおける知覚と記憶の反転(ベルクソン)に重ね合わされることで、空間のタイプはたんにオブジェクトのトポロジカルな性質を指すだけではなく、そのなかで流れる時間の固有性を含意してもいることがわかる。

 あるいは、アメリカのテレビドラマ『24』における分割スクリーンをめぐる論考(p. 155-183)をもうひとつの例としてあげることができる。「リアルタイム」で進行するサスペンスのなかで同時的な複数のシーンが共存し、かつそれらの相互の連絡が行われるのを提示する分割スクリーン。こうした現代的な状況は即時の(immediate)コミュニケーションを可能にし、空間的距離を抹消するものとして危惧されたり称揚されたりするものであるが、ポール・ヴィリリオに典型的なこの「空間の消滅」という考えをデューリングは批判する。分割スクリーンの効果はむしろ、同時的なシーン相互の連絡の有限性によって発揮される。切れてしまう通信、電話しながらの裏切り行為といったコミュニケーションの有限性だけでなく、画面外空間の増殖による「縁(fringe)」の重ね合わせが、この作品における分割スクリーンを「パノプティック」という素朴な一と多の関係でなく、絶えざる切断と接続によって露わにされる「断片による全体化」を打ち立てるものにする。(*なお、この点については、マルチスクリーンを用いた映像作品の批評である拙論「In (Search of) a Lost Image, Lost In a Stage:伊藤高志『三人の女』」 に詳しい)

 この二つの例からわかるのは、「切断」はなんらかのトポロジカルな構造(空間のタイプ)に沿ってなされ、それによって切断されたものがプロトタイプであること(あるいは、プロトタイプは自らを切断とみなすことによって新たなビジョンを投射するものであること)。空間のタイプは、メビウスの輪のような歪みを持ったものであったり、分割スクリーンのように断片的なものであったりするが、パースペクティブの共存の形式として提示されること。おのおののパースペクティブは、固有の外部(縁)を備えており、空間のタイプはそれぞれのアナクロニックな干渉の様態を規定するものであること、である。

 デューリングのプロトタイプ論がグレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」とは異なるのは、前者がつねに時間、空間というカテゴリーのなかで、あるいはそれを更新するためにオブジェクトを思考している点にあるだろうし、だからこそ映像、建築、美術は彼の哲学のマトリクスとなりうる。代替因果と緩衝因果という概念構成に見られるように、ハーマンはつねに論理的な関係のもとでオブジェクトを捉えているように思われる(それが絶対的な非ー関係に向かうものであるにせよ)。

 われわれが欲するのはイメージである。

 

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