映画評:トッド・ヘインズ『キャロル』

2016年2月12日、TOHOシネマズ梅田にて鑑賞(作品公式サイト

二度繰り返されることになる、冒頭のリッツでの出し抜けの別れ。当然観客はこのときそれが繰り返されるとも知らないし、終盤になるまでリッツでの会食をふたりの物語のなかでどの時点に位置づければよいのかもわからない。実のところこの冒頭のシーン(あとでジャックと呼ばれる男がリッツへと入り、テレーズを発見し、キャロルが立ち去り、テレーズが窮屈な後部座席で濡れた窓越しに外を眺めるまで)を厳密に物語論的に位置付けることは不可能である。

というのも(もちろんそれは繰り返されたときに時間的な位置づけを受け取るし「そういうことだったのか」という納得を誘うものであるのだが)まさしくこのシーンの終わり方が問題になるからだ。テレーズの顔が内側は曇り外側は雨に濡れたガラス越しに大写しになる。踏切の警告音と電車の走行音とともに画面はアウトフォーカスし、ジオラマを走る電車、デパートでのテレーズとキャロルのファースト・サイトの場面へとショットが矢継ぎ早に切り替わり、テレーズがデパートで働くシーンへと視点は落ち着く。そして約2時間後、私たちはまたリッツから窮屈な車に乗ってパーティへと向かうテレーズを見ることになる。ならば冒頭のシーンの終わりは、回想を呼び出すものと考えるべきなのだろうか。しかしそうすると冒頭のシーン以外はすべて回想だということになってしまうし、リッツからジャックとともにパーティへ向かったテレーズのその後を見ているわれわれはいつの間にか回想が始まった時点を追い越してしまったことになる。回想の内容が回想を始めた時点を追い越してしまうなどということはあり得ない。
私はこの「不整合」を糾弾したいわけではもちろんない。むしろこの作品における車中のシーンはことごとく素晴らしいものだと考えている。実はテレーズが水の滴る窓から外を眺める同じショットが登場する場面はもうひとつある。それは、キャロルが娘のためにクリスマス・ツリーを買いに行くのにテレーズがついて行く場面。テレーズはキャロルの助手席に座っている。車がトンネルに入り、電灯の光が尾を引いて飛び去って行く。ここでなぜか雨も降っていないのに例のショットが挿入され、トンネルの出口でのホワイトアウト、画面に奇妙な浮遊感をたたえたまま、キャロルをこっそり写真に収めるテレーズ。加えて、唯一キャロルが後部座席から眺めた風景が主観ショットで提示される場面。そこで彼女は仕事へ向かうテレーズを視線で追いかける。この作品において車は移動手段である以上に、ふたりの主人公の内面がその窓に映り込むガラスの箱である。ガラスは透明であるが、外部の光をその表面に映さずにはおかない。ジャック・タチが『プレイタイム』でその性質をギャグに取り込み、最近では濱口竜介の『ハッピーアワー』におけるフロントガラスに映り込む並木の梢が印象的だったが、「半透明の美学」とは見えそうで見えないもの(ヴェールをかけられたもの)の美のことではなく見ているものがあるそこから見えるものが映り込んでしまうことの二重性の美なのではないだろうか。ドゥルーズが「結晶イメージ」という概念で意味していたのはまさに見ているものと思い出しているもの、思い描いているものが識別できなくなってしまうようなイメージのことだった。
テレーズは車内でぐったりしながらキャロルとのファースト・サイトを追憶し(電車の走行音→ジオラマの電車→デパートでのキャロルとの出会い)、テレーズから身を引き離したことを後悔するキャロルは車内からテレーズの姿を探し求める(キャロルとアビーは「オープンカー」に乗っていることを想起してもいいかもしれない)。最後の場面、ふたりは、180度の切り返しで正面からしっかりと見つめ合う。幻想は横断され=通り抜けられtraversé、ふたりは互いの関係を誰のせいでもなく終わりうるものとして捉えることがもうできている。

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(写真と本文は無関係)